波佐見町の歴史

波佐見の成り立ち

波佐見町は長崎県のほぼ中央部、東彼杵郡内では最も北に位置し、西は佐世保市、南は川棚町と隣接し、北部と東部は佐賀県有田町、武雄市、嬉野市と境を接しています。東西10.5キロメートル、南北7キロメートル、総面積は55.97平方キロメートル、その中央部に流れる川棚川によって形成された中央から南部にかけての肥沃な平野では、古くから農業が盛んです。海岸線が北海道に次いで長い長崎県にあって唯一海の無い町で、西南部を除いては低い山々が町を囲み、そのうち東南部の永尾・三股・中尾地区からは磁器の原料となる陶石(風化流紋岩)が発見されたことから、江戸時代に陶磁器の生産が始まり、現在もその伝統は守られています。
「波佐見」という地名の由来については諸説ありますが、山々に挟まれた地形を示す「狭間(ハザマ)」から変化したとも言われています。発掘調査の結果から、旧石器時代には人々が居住していたことが分かっています。室町時代には小領主たちが波佐見に住み分領していました。安土桃山時代、日本初のキリシタン大名、大村純忠の領するところとなり、「波佐見村」として大村領に属しました。1870(明治3)年、一旦「上波佐見村」「下波佐見村」に分かれた後、1934(昭和9)年、上波佐見村が町制施行により上波佐見町となり、1956(昭和31)年、下波佐見村と合併して「波佐見町」が誕生し、現在に至っています。

波佐見全景

波佐見の仏教信仰

今から約1300年前の奈良時代の和銅年間から天平年間にかけ、高僧行基が金谷山東前寺を建立したとされ、今でも滑石製笠塔婆や宝塔、阿弥陀三尊板碑など大変古い石造物などが残されています。また南北朝から室町時代、波佐見の僧侶が岐阜県や静岡県の寺院で写経した「大般若波羅蜜多経」や「南無阿弥陀仏」と刻印された「理趣経百万遍読誦塔」などが残されていることから、早い時期からの波佐見における仏教信仰の高まりを見ることができます。

戦国時代後期になると、急速にキリスト教が大村領内に広まり、1574(天正2)年、ほとんどの寺社が焼き払われました。その後、江戸幕府による禁教令により再び仏教が隆盛となると東前寺はじめ多くの寺社が再建されるとともに、新しい浄土真宗などの寺院も藩内各地に創建され、キリシタンを排斥するために「寺請制度」や「五人組」などが設けられました。

波佐見のキリスト教

1550年頃、フランシスコ・ザビエルにより初めてもたらされたキリスト教が山口、九州地方を中心に広まっていく中、長崎大村の領主、大村純忠は家臣らとともに洗礼を受け、1563(永禄6)年、日本初のキリシタン大名となりました。そして領民に対してもキリスト教を強く奨励した結果、大村領内の信者は6万人を超え、日本国内の信者15万人の中心地となりました。このような環境の中、波佐見で生まれ育ったのがのちに天正遣欧少年使節団の一員となって活躍した原マルチノです。1582(天正10)年、長崎からローマに向けて出発した当時まだ12歳のマルチノら4人の少年を中心とした使節団の旅はまさに命がけでした。2年半もの辛い船旅を経てたどり着いた彼らはポルトガルはじめヨーロッパ各地で国賓並みの大歓迎を受け、旅の最大の目的地、バチカンでは教皇との謁見を果たしました。この快挙は当時の西欧の人々に日本という国を強く印象づけるものとなり、使節に関する書物や冊子が80種近くも発行されました。青年となった彼らは8年後の1590(天正18)年帰国しグーテンベルグ活版印刷機や西洋楽器、海図など貴重な文物を持ち帰り、豊臣秀吉に謁見しましたが、秀吉により伴天連追放令や禁教令が出されると殉教者が出るなどキリシタンにとって厳しい時代となっていきました。そしてイエズス会司祭として長崎で活躍した原マルチノも1614(慶長19)年マカオに追放され、ついに帰国することはありませんでしたが、生涯をキリスト教布教に捧げました。

江戸時代の長い禁教政策の結果、波佐見においてキリスト教に関する遺跡や歴史資料はほとんど残っていませんが、400年以上、民家裏に残されていた「INRI銘入り石製四面線刻十字架碑」が唯一貴重な史料として、布教から禁教にいたる歴史を垣間見せています。

江戸時代の波佐見

農業と陶磁器生産という二つの産業を備えた波佐見は、地理的に海外との貿易が唯一許されていた長崎とも近いため、人やモノの往来も盛んで、比較的文化水準も高かったようです。何度も人々を襲った飢饉や疫病にも様々な工夫をすることによって乗り越えてきました。
例えば享保17年(1732)の飢饉ではコメに代わって芋の栽培を行ったり、農作物に被害をもたらすウンカの発生を抑えるため、鯨油を使って駆除しました。また、皿山では義太夫の好きな住人の発案で藩内の内海・外海、平戸島、五島方面へ浄瑠璃興行を行い、麦や干魚、干芋等をもらって帰り、飢民を救ったと言われています。
また、天保元年(1830)から始まった飢饉では不景気でやきものが売れず、貧しい皿山郷民たちが藩から大野原(千綿村)への移住を迫られましたが、窯の火を絶えさせてはならないと、庄屋の福田安兵衛みずからが私財を投げうって3年もの間、生活の苦しい郷民の食事を世話しつつ、窯を焚き続けたとのことです。

明治以降の波佐見

長い間一続きの村であった波佐見は明治3年には上波佐見村と下波佐見村に一旦分かれました。その後明治30年に上波佐見村は町となり、昭和31年(1956)町と村が合併して波佐見町となりました。初代の町長は福重武次郎氏でした。
やきもの産業は明治に入るとそれまで手厚かった藩の支援がなくなり、巨大な登り窯も維持が難しくなりましたが、石膏型による成型や銅板転写などの新しい技術の導入によって急激に近代化していきました。窯も大正の終わりごろから石炭窯が導入され、町のあちこちにレンガの煙突が立ち並ぶ風景が見られるようになりました。
また、明治29年(1896)湯無田郷の山中で山本作左衛門が金鉱脈を発見、翌年から鹿児島の祁答院重義が試掘を開始し、明治33年には精錬所ができ、金16キログラム、銀13キログラムを得たことから事業は拡大し、明治43年(1910)日本興業銀行による「波佐見鉱業株式会社」が経営に乗り出すと、多くの技術者や職人たちが滞在するようになりました。採掘や精錬のために明治35年には佐賀県川上川に水力発電所を建設し、同40年、波佐見まで送電線が引かれると、電灯が灯りトロッコが走り、従業員1,000人を超える一大産業となると、周辺には旅館や商店が軒を連ねて大いに賑わいました。採掘された金は約1トン、他に銀や銅も採れたようですが、やがて採算が合わなくなり大正3年(1914)閉山しました。
その後、9本あった坑道は太平洋戦争末期に大村から疎開してきた戦闘機「紫電改」の部品を作る軍需工場となり、多くの女学生たちが学徒動員されて働いていたということです。

波佐見の産業など

波佐見町の人口は第2次ベビーブームや陶磁器産業の隆盛期には増加傾向にあったものの、平成2年(1990)をピークに人口減少が進み、現在は約14,500人、このまま推移すると令和7年(2025)には13,899人、40年(2058)以降には1万人を切るとの予想もあります。
江戸時代から日用食器の産地であった波佐見町ですが、農業も盛んで、古くから半農半陶の二刀流であったため、干ばつや飢饉、戦争や金融恐慌などの危機をうまく乗り越えて来られたともいえます。時代に合った製品を未来に向けて生み出すため、県立波佐見高校にはデザイン科が設置され、県の窯業技術センターでは先進的な技術の研究が行われています。
鉄道の駅が無く、かつては物流に難があった波佐見町ですが、1988年、西九州自動車道が開通、波佐見・有田インターチェンジが設けられたことから輸送がスムーズになったほか、やきものの里としての認知度が上がって観光交流人口も増えました。2010年には波佐見テクノパークが完成し、大手精密機械メーカーなどの工場が誘致されたことで雇用が拡大し、他地域のような大幅な人口流失は食い止められた形です。

波佐見の農業について

川棚川流域に比較的広大な平野がある波佐見では太古の昔から農耕が行われ、江戸時代は大村藩の米蔵と言われるほどでした。また、江戸中期には鬼木棚田も作られ、近世においては農閑期にもう一つの産業である窯業関係で現金収入を得るなど多様な働き方ができるため、人々の暮らしも安定しています。水田面積650haのうち約83%は区画整理済みで、大型農機による作業とライスセンターを結んだ米麦大豆一貫作業体制が確立されているなど農業の近代化にも力を入れています。
米のほか、ナシやミカンなどの果樹、山間では葉ランやお茶などの生産も試みられ、特にお茶は隣接する嬉野に引けを取らない品質のものが作られます。近年ではアスパラガスのハウス栽培や、農事組合法人「百笑会」による耕作放棄地での有機栽培、廃石膏で土壌改良を行い製菓用の米を作るなど、先進的な農業にも広がりを見せています。また、農林水産省が令和4年(2022)、全国から271の棚田を「つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~」に選定し、そのうち波佐見町では鬼木棚田のほか川内棚田、野々川郷百枚田の3ヶ所が選ばれました。

波佐見の茶畑

波佐見の観光

農業と窯業を主な産業としてきた波佐見町も、それだけでは先細りで後継者もいなくなってしまうという危機感から、2001年に「来なっせ100万人」というスローガンのもとに、当時は年間50万にも満たなかった観光客数を増やそうと考えました。例年最も賑わう大型連休に合わせた陶器市のほかに、それまで観光産業とはあまり縁がなかった地域でも、交流人口を増やすために観光コースを整備し、季節ごとにさまざまなイベントや体験プログラムを企画するなど努力を重ねました。また町やNPO法人グリーンクラフトツーリズム研究会などの各団体、観光協会などが一体となり、宿泊できる民泊先を募ったりホテルを誘致したりレンタサイクルを設置するなどして、観光交流人口を増やすための工夫を重ねた結果、2018年にはついに不可能と思われていた来町者100万人を突破しました。
ちなみに「来なっせ」とは波佐見弁で「どうぞおいでください」の意味です。

世界の窯広場

波佐見の伝統芸能

古より多くの人々が行き交い、多彩な文化が入ってきていた波佐見には高度な文化が育まれてきました。鉦や太鼓に笛のお囃子に合わせて踊り子が独自のストーリーを表現する「浮立」と言われる民俗芸能は、現在も町内の山中、野々川、鬼木、協和の4地域で受け継がれ、毎年恒例の行事となっています。
また、陶磁器産地でもあった皿山郷には享保の大飢饉の折に郷民を飢えから救うため興行を始めたという「皿山人形浄瑠璃」が伝えられており、現在に至るまで毎年皿山大神宮の夏越祭りで奉納公演されるほか、各地で公演を行っています。昭和29年(1954)長崎県無形文化財に、昭和52年(1977)には長崎県無形民俗文化財に指定されています。

皿山人形浄瑠璃