波佐見焼の歴史

黎明期

波佐見焼の始まりは1590年代頃、下稗木場窯(全長約22m部屋数約12室)で焼かれた陶器の碗皿や甕などの日用品であったと考えられます。粘土を原料とする陶器は焼成温度が1,000℃ほどで、唐津の岸岳窯の職人が関わっていたという説もあります。
その後、文禄・慶長の役の折に連れ帰った朝鮮人陶工たちが関わったとされる村木の畑ノ原、古皿屋(ふるさらや)、山似田(やまにた)の窯で、1610~1620年代頃、波佐見で初めての磁器焼成に成功したため、当時の陶工は本格的に磁器の生産を始めるべく地元で陶石の鉱脈を探し回っていたと思われます。

畑ノ原窯跡

平成5年整備工事が完了し、前方4室が復元された畑ノ原窯跡(国史跡)

畑ノ原窯跡の出土品

畑ノ原窯跡より出土した波佐見最古の染付磁器片

青磁の時代

磁器の原料となる陶石が三股の山中で発見されたことから、17世紀初めごろより波佐見で本格的な磁器窯が築かれ、特に陰刻を施した青磁の皿や白磁の貼花を飾った器など高度な技法が駆使された三股窯の製品は主に贈答用として使われ、富裕層の屋敷跡から多く出土しています。
その後、17世紀中頃中国で起こった内乱により「海禁令」が出され、陶磁器の輸出ができなくなると、多くの国から代わりの陶磁器産地を求めるようになり、日本の製品ににわかに注目が集まるようになります。そのため波佐見では海外(主に東南アジア方面)向けの製品を大量に生産するようになり、1666年には皿山役所が設置されました。

青磁皿

植物の図柄が陰刻され白磁の貼花があしらわれた波佐見青磁の皿(青磁陰刻雲気芭蕉文皿)

染付雲龍紋鉢

海外向けに生産されたもの。染付雲龍見込み荒磯文鉢

くらわんかの時代

1680年代頃、中国の内乱が終息し、中国磁器の輸出が再開されると、海外の売り先を失った波佐見の陶磁器は国内向けに切り替えざるを得なくなります。そこで考案されたのが、安価で扱いやすく親しみやすい日用食器です。世界にも類を見ない巨大な窯を使い、積み方の工夫でさらに量産を可能にし、絵付けも早く描けるよう割筆を使ったり、コンニャク印判と呼ばれるハンコを使ったりと工夫を重ねました。
安くて丈夫で使いやすい器はたちまち大人気となり、江戸庶民の食文化に大きな変革をもたらしました。特に大量消費地である大阪で「くらわんか碗・くらわんか皿」と呼ばれたことからこの名が一般的になりましたが、当時の波佐見の人々は果たしてそのことを知っていたでしょうか?
海外に醤油や酒を輸出するための器である「コンプラ瓶」は江戸末期から大正時代まで波佐見で生産されていました。

くらわんか碗

庶民向けの器として大量生産されたくらわんか碗(染付雪輪草花文碗)

コンプラ瓶

醤油や酒を海外に輸出するために19世紀前半から波佐見で生産されたコンプラ瓶

高度成長期の波佐見焼

明治以降、藩からの支援がなくなると、陶磁器の生産は個人や会社組織へと変わり、成形には鋳込みや機械ロクロが使われ、絵付けには銅板転写やカッパ刷り、窯の燃料も石炭や重油へと大きく変わっていきます。やがて昭和になると第二次世界大戦でほかの産業と同様に大きなダメージを受けた波佐見焼でしたが、その後も廃れることなく続き、昭和30年代から50年代の高度成長期には、全国的な流通改革などもあって飛躍的な発展を遂げます。
絵柄や形状などにこだわりのない波佐見焼は、人々の生活様式の変化や流行、時代の雰囲気などに合わせて自在にデザインを変化させ、人々の求めるモノが何なのかを常に模索してきたのです。昭和53年(1978)波佐見焼は「伝統工芸品」の指定を受けました。

染付若竹紋飯碗

戦後の大ヒット商品のひとつ、染付若竹文蓋付碗

波佐見焼の今と未来

古くから分業制で効率よく製品を作ってきた波佐見焼は、使い心地の良さや料理が映えるという使い手の視点が重視され、形状も絵柄も自由にデザインされていることから、多くの人々に共感を得られているのではないでしょうか。あたたかみのある民芸風の陶器から北欧風の磁器、親しみやすい絵柄からシャープで都会的な形状の器まで、波佐見で作られたものはどれも波佐見焼、こんな自由さが波佐見焼の魅力です。

多種多様な波佐見焼の製品

多様なデザインで人々の暮らしを彩る現代の波佐見焼