展示資料/所蔵・寄託資料
常設展示資料
常設展示室1(先史・古代・中世)
〈交流のあけぼの〉
波佐見町の旧石器時代について、伊万里市腰岳と川棚町大崎半島の黒曜石の原石と平野郷栗林遺跡出土のナイフ型石器類、縄文時代については稗木場郷山角遺跡で出土した縄文式土器を展示しています。
〈古代の波佐見〉
奈良時代初期の和銅3年(713)に編さんされた地誌「肥前国風土記」(国宝の複製)の写真を展示し、現在の波佐見町から川棚町付近に比定される「彼杵郡浮穴郷」と同地に土蜘蛛という集団を率いた女性酋長・浮穴沫媛が統治し、大和朝廷(景行天皇)に抵抗したことなどを紹介しています。
〈波佐見と仏教文化〉
奈良時代の和銅年間(708~715)に高僧・行基が金谷山(金屋郷)に建立したとされる東前寺や町内各神社・寺院の紹介をしています。
東前寺関係では町内最古の石造物で平安時代後期、西暦1100年代の滑石製笠塔婆の塔身2点、鎌倉時代後期西暦1250年代の緑色片岩製・宝塔の塔身1点を展示し、波佐見町で平安時代後期という大変古い時代に仏教文化の展開したことを現物資料で紹介しています。
また町内最古の紀年銘石造物で貞和3年(1347)銘の巨大な「阿弥陀三尊板碑」も展示しており、波佐見での仏教信仰の高まりを示しています。さらに岐阜県と静岡県に残っている南北朝・室町時代に波佐見の僧侶が写経した「大般若波羅蜜多経」奥書も展示しており、波佐見での仏教文化の展開を示しています。特に永和4年(1378)1月14日の写経は地名として波佐見が初めて記載された資料です。
〈波佐見とキリスト教文化〉
天正10年(1582)ローマ教皇のもとに派遣された天正遣欧少年使節の一人、波佐見出身の原マルチノは外国語が堪能でした。インドのゴアで使節を代表しラテン語で述べた謝辞『原マルチノの演説』(複製・写真)や、原マルチノが波佐見出身であることを記す「ボローニャ元老院日記」(写真)も展示しています。
さらに波佐見のキリシタンの動向を知る上で重要な石造物「INRI」銘入り石製四面線刻罪標十字架碑も展示しています。これは江戸時代初期・西暦1600年代の移動可能な十字架碑です。
〈中世の物流〉
他地域との交流で波佐見の暮らしが豊かになりました。西日本で平安時代の終わりごろから調理に使用されていた西彼杵半島製の石鍋や中国福建省産の焼き物など町内蔵本遺跡出土品を展示しています。
〈波佐見武士団の成立と展開〉
鎌倉時代から戦国時代までの波佐見武士団の動向について紹介します。(展示資料は町外古文書写真)鎌倉時代後期正中2年(1325)、嘉暦3年(1328)に波佐見次郎忠平、波佐見彦次郎など波佐見を名字とした武士が波佐見の在地領主として存在したことや、南北朝時代観応2年(1351)波佐見六郎俊平が筑前国月隈原(福岡市博多区月隈)の合戦に北朝・足利直冬方の今川直貞の軍勢として出兵したことなどを紹介しています。また戦国時代、波佐見の女性武士が活躍した様子も分かります。波佐見の在地領主が武雄領主後藤氏と大村領主大村氏の間でいかに行動したかを紹介しています。天正4年(1576)の武雄領主後藤貴明・晴明父子宛の起請文で波佐見の領主・定松美作守前久が武雄側に味方したこと、天正12年(1584)の武雄領主後藤家信、大村領主大村純忠宛起請文で波佐見村の波佐見衆中(20人)、折敷瀬衆中、内海衆中が武雄・大村双方に味方し、さらに波佐見武士がキリシタンであったことが分かります。

常設展示室2(近世・近代・現代)
〈波佐見村と大村家家臣団〉
江戸幕府成立後、波佐見村は肥前大村藩の領地となりました。波佐見村には大村藩の家臣つまり大村藩士が102人(幕末期)住んでおり、皿山役所や横目役所、運上所など大村藩の役所が置かれた様子も紹介しています。
また、永尾郷居住の大村藩士・太田家伝来の火縄銃(大坂・堺製)や玉薬入れ、火薬などを入れた大胴乱(鞄)、長崎警備の際に使用した木札など実物を展示しています。また関連資料として弘化3年(1846)フランス軍艦3隻が伊王島沖に停泊した際、大村藩の警備のため太田郷右衛門資義が福田村に出張した際の日記も展示しています。
〈「道」を通じた交流〉
江戸時代、波佐見は川棚から有田へ向かう往還と武雄へ向かう往還が通る交通の要であったことを紹介し、大村藩内で波佐見がどのような位置にあったかも分かります。特に江戸時代前期・明暦4年(1658)に大村藩家老3名の署名によって領内各村に布告された「御條目/定」(複写)を展示し、波佐見の民衆との関係性が知られます。また、元禄年間(1688~1703)に編さんされた「大村記 波佐見村」を展示し、波佐見の往還の様子も分かり、寛政13年(1801)から文化3年(1806)までの波佐見に住んだ大村藩士の名簿も展示しています。
〈波佐見焼の成立と展開〉
安土桃山時代の終わりごろから江戸時代初期の波佐見焼の成立から江戸時代末期までの展開について、窯跡から発掘した出土品で紹介しています。日本地図でくらわんか碗を中心にどのように国内へ流通・輸送され海外へ輸出されたかを分かりやすくルート表示しています。陶器から磁器への変遷、青磁・くらわんか碗・コンプラ瓶について簡単に要点が学べます。
〈江戸時代の交流〉
ここでは波佐見に伝わる人形浄瑠璃、四つの浮立という民俗芸能や江戸時代後期、災害や飢饉などから民衆を救った波佐見人や、俳句など波佐見で展開した文化を紹介しています。湯無田郷に伝わる山中浮立の道具類も展示しており、鬼人面は圧巻です。
岳辺田郷の農民・永冨久平次の功績に対し大村藩からの対応が分かる資料や永尾郷の大村藩士・太田家に関わる俳句の資料や御用絵師の下絵も展示しています。
また、大村藩・平戸藩・佐賀藩の三藩の境界に建立された「三方境傍示石(三領石)」の原寸大レプリカも展示しています。
〈明治・大正時代の波佐見〉
明治3年(1870)波佐見村は正式に「上波佐見村」と「下波佐見村」に分かれました。
〈金をめぐる交流〉
波佐見金山に関する資料を展示しています。明治29年(1896)に湯無田郷の山本作左衛門が金鉱脈を発見し、翌年、鹿児島の鉱山会社が採掘を開始しました。明治43年(1910)からは日本興業銀行による「波佐見鉱業株式会社」が経営を行い、大正3年(1914)の閉山までに金1,033キログラム、銀2,394キログラムが採掘され、最盛期には1,000人ほどが働き、「迎賓館」などの洋館が建ち並び、湯無田郷内海は非常な賑わいをみせました。
〈昭和時代の波佐見〉
昭和9年(1934)上波佐見村は町制に移行し、「上波佐見町」になりました。そして、昭和31年(1956)6月1日に上波佐見町と下波佐見村が合併し、「波佐見町」となりました。
〈「波佐見人」の活躍〉
昭和時代の波佐見を代表する歴史学者・黒板勝美(田ノ頭郷)、経済人・今里廣記(宿郷)、児童文学作家・福田清人(鬼木郷)3人に関する資料を展示しています。
〈平成時代の波佐見〉
情報通信技術の急速な発展で、産業・農業をはじめ生活の全てに大きな変化が生じました。波佐見町に年間100万人の観光客を呼ぶ「来なっせ100万人」運動を達成するなど、交流人口は大幅に拡大しました。
ここでは、平成時代の波佐見の出来事として、平成8年(1996)開催の「世界・焱の博覧会」に合わせて来町した池田満寿夫氏が製作し、世界の窯で焼かれた作品や、長崎県立波佐見高等学校野球部甲子園初出場に関する資料を展示しています。

特別展示室
改築の際に増設されたこの特別展示室では、所蔵品展示のほかに時節に合わせた様々な企画展を開催いたしますので、「講座・イベント」のページでご確認ください。
波佐見青磁(所蔵品展示)
波佐見では磁器生産開始から程なく、高度な技術を駆使した青磁の生産を盛んに行っていました。陰刻を施した上に釉薬を掛けて彫った部分を際立たせ、品格ある製品に仕上げたものや、白磁の造形を貼り付けて加飾した「貼花(ちょうか)」など高度な技法を使った波佐見青磁は武家や寺院などに伝えられ、あるいは城跡や家老屋敷といった富裕層の住宅跡から出土するなど、当時は献上品などとして使われていたようです。

青磁陰刻唐花雲文鉢

青磁染付紅葉文皿
くらわんか藤田コレクション(所蔵品展示)
大阪府交野市にお住いの藤田雅敏氏が寄贈されたもので、約1,000点からなる江戸時代の庶民向け日用食器(くらわんか)のコレクションです。当時の波佐見焼も多く含まれています。

染付丸文碗(18世紀後半)

染付梅樹折松葉文皿(17世紀中頃)
三上コレクション(所蔵品展示)
三上次男コレクションについて
東洋史、特に東北アジア史、騎馬民族国家の研究や東洋陶磁史で著名な三上次男氏は、昭和17年(1932)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業後、中国に留学し、遺跡調査に参加されます。東京大学教授に就任後も、国内外の古窯跡・遺跡の発掘調査に携わられ、毎年のように国内外各地に赴き、精力的に調査・研究・講演を行いました。
先生の業績は多岐にわたりますが、とくに中国をはじめアジア各地の陶磁器が海の道を通り、どのような地域に運ばれ、どのような影響を与えたかという、「貿易陶磁史」の研究に偉大な足跡を残され、今もなお世界中の研究者に影響を与え続けています。
波佐見町では、昭和54年(1979)から、町内における初めての古窯跡群の体系的・学術的調査を三上先生に依頼しました。波佐見古窯跡群の学術的解明に初めて着手され、その成果は以降の研究・調査の基礎資料となりました。畑ノ原窯跡の調査においても多くのご指導・ご助言を賜りました。
古窯群跡の更なる調査と保護の必要性を訴えられた先生が撒かれた種はその後、平成12年(2000)に「肥前波佐見陶磁器窯跡」の国史跡指定へと実ることになりました。先生の手掛けられた研究は今日もなお世界中の研究者に影響を与え続けています。
平成25年(2013)12月、故・三上次男先生が所蔵されていた世界の陶磁器をはじめとする約3,000点に及ぶ貴重な資料の数々を、先生のご息女である三上かね子様より、波佐見町へご寄贈いただきました。
【三上次男氏のプロフィール】
明治40年(1907)3月31日京都府宮津市生まれ
昭和7年(1932)東京帝国大学文学部東洋史学科卒業
昭和24年(1949)東京大学教授
昭和42年(1967)青山学院大学文学部教授、東宮家(現・皇室)の東洋史教師。
昭和49年(1974)恩賜賞・日本学士院受賞
昭和62年(1987)6月6日逝去

古代から近世の製品まで多様なガラスコレクションです。

人面ガラスビーズ(B.C,12世紀頃)フェニキア
寄託資料
寄託資料「太田家文書」について
波佐見町永尾郷にお住まいの大村藩士・太田家の子孫から2017(平成29)年に波佐見町教育委員会へ寄託された文献史料群約1000点である。特に江戸時代前期・明暦4年(1658)に大村藩家老3名の署名によって領内各村へ布告された「御條目/定」(原本)や太田郷右衛門資義が、江戸時代後期から明治時代前期に書いた「公私日記」(原本)、そして幕末の長崎港に来航した外国船に関する記録(原本)は、江戸時代の大村藩や波佐見村、幕府領長崎の実態を知る上で大変貴重である。
「大村藩士・太田家」
大村藩士・太田家は代々、上波佐見村永尾郷(波佐見町永尾郷)に居住した村大給・家禄10石の家系である。先祖は最初の江戸城を築城した室町時代の武将・太田道灌とされる。
太田家は大村藩士として、皿山代官・諸村横目・勘定方役人などを歴任した家系で、江戸・大坂・長崎にあった大村藩屋敷でも勤務した人物を輩出している。特に幕末の当主、太田郷右衛門資義は、大村藩領内各村の横目を歴任し、福田村の横目勤務中に明治維新を迎えた。資義は幕府領長崎に来航した外国船の記録や膨大な日記を残し、その傍ら、俳句を嗜み俳号を「杜月」と称した。
その子、太田源六は、慶応4年(1888)、戊辰戦争の中の「羽州戦争」に際し、大村藩北伐軍の兵として、新政府軍に味方した久保田(秋田)藩(藩主・佐竹氏)の重要拠点「角館」(秋田県仙北市)救援のため、秋田方面へ出陣している。
その他の展示品について
その他の展示品については下記をご覧ください。