展示内容(常設・特別)
常設展示室
(1)先史・古代・中世
〈交流のあけぼの〉
今から1万年以上前の旧石器時代、波佐見ではすでにヒトが生活していたことがわかっています。そして、近隣の伊万里市腰岳や川棚町大崎半島の黒曜石を求めて移動し、原石を加工した数々の石器を使って狩や採集などを行っていました。ここでは平野郷栗林遺跡出土のナイフ型石器類、稗木場郷山角遺跡で出土した縄文時代の土器を展示しています。
〈古代の波佐見〉
「肥前国風土記」(複製)~(奈良時代初期、713(和銅3)年に編さん)をみると、現在の波佐見町から川棚町付近に比定される「彼杵郡(そのぎのこおり)浮穴郷(うきあなのさと)」があり、そこを土蜘蛛(つちぐも)という集団を率いた女性の浮穴沫媛(うきあなのわひめ)が支配し、大和朝廷(景行天皇)に抵抗したため滅ぼされたことなどが記されています。
〈波佐見と仏教文化〉
インドから朝鮮半島を経由し、日本に仏教が伝えられたのは飛鳥時代とされ、波佐見に仏教が興ったのは奈良時代の初めと考えられています。平安時代に入ると天台密教系の仏教が興隆し、波佐見では金谷山東前寺が中央堂と称され、六坊十二寺を従えて荘厳な構えだったと伝えられています。
東前寺関係資料として、町内最古の石造物で平安時代後期、西暦1100年代の滑石製笠塔婆の塔身2点、鎌倉時代後期西暦1250年代の緑色片岩製・宝塔の塔身1点を展示し、貴重な資料を間近で見ることができます。
また町内最古、1347(貞和3)年銘の巨大な「阿弥陀三尊板碑」や岐阜県と静岡県に残っている南北朝・室町時代に波佐見の僧侶が写経した「大般若波羅蜜多経」奥書も展示しており、ともに波佐見での仏教文化の興隆を示しています。特に1378(永和4)年の写経は地名として「波佐見」が初めて記載された貴重資料です。
〈波佐見とキリスト教文化〉
16世紀半ば、大村領内ではキリスト教が広く浸透し、国内では他に例をみない「キリシタン王国」が出現します。1582(天正10)年、ローマ教皇のもとに派遣された天正遣欧少年使節の一人、波佐見出身の原マルチノは外国語が堪能で、インドのゴアで使節を代表しラテン語で述べた謝辞『原マルチノの演説』(写し)や、原マルチノが波佐見出身であることを記す「ボローニャ元老院日記」(写し)やマルチノらの直筆サイン(複写)等を展示しています。
さらに唯一波佐見に残されたキリシタンの遺物で、国内では類例が無く、当時を知る上で重要な石造物「INRI」銘入り「石製四面線刻罪標十字架碑」を実物展示しています。これは禁教期前後、波佐見の信者たちがお祈りの際、4面どこからでも見えるように、部屋の中心に置いて使用したと思われる移動可能な十字架碑(長さ約47cm)です。
〈中世の豊かな交流〉
波佐見は海にこそ面していませんが、古代から中世にかけて大村湾から川棚川の水運を利用して大陸との交流が行われていたことがわかっています。川棚方面に開けた、蔵本(くらもと)遺跡からは平安時代の終わりごろから調理に使用されていた西彼杵(にしそのぎ)半島製の石鍋や優れた中国福建省産の陶磁器(やきもの)などが出土し、下波佐見(現在の平瀬田原一帯)は早くから、華開く豊かな地域であったことを示しています。
〈波佐見武士団の成立と展開〉
鎌倉時代から戦国時代までの波佐見武士団の動向については、古い文書から色々なことを知ることができます。
鎌倉時代後期、1325(正中2)年、1328(嘉暦3)年に波佐見次郎忠平、波佐見彦次郎など波佐見を名字とした武士が波佐見の在地領主として存在したことや、南北朝時代、1351(観応2)年、波佐見六郎俊平が筑前国月隈原(福岡市博多区月隈)の合戦に北朝・足利直冬方の今川直貞の軍勢として出兵したことなどが分かります。 また非常に興味深いのは、戦国時代、波佐見の女性武士が活躍した様子が分かることです。その他、波佐見の在地領主が武雄領主後藤氏と大村領主大村氏の狭間でいかに行動したかも注目されます。1576(天正4)年の武雄領主後藤貴明・晴明父子宛の起請文では波佐見の領主、定松美作守前久が武雄側に味方したこと、1584(天正12)年の武雄領主後藤家信、大村領主大村純忠宛の起請文を見ると波佐見村の波佐見衆中(21人)、折敷瀬衆中、内海衆中が争っている武雄、大村双方に味方し、さらに波佐見武士がキリシタンであったことが分かります。
特別展示室
特別展示室では、年次計画で毎年、企画展を開催しています。通常期は青磁やくらわんか、コンプラ瓶(オランダ在住のGuido氏から2024年5月、寄贈を受けた製作年代によって様々な特徴のある貴重なコンプラ瓶を含む)や江戸期の波佐見焼を代表する製品の数々を展示するとともに、「三上コレクション」の一部をご紹介しています。
波佐見青磁(所蔵品展示)
波佐見では磁器生産開始から程なく、高度な技術を駆使した青磁の生産を盛んに行っていました。陰刻を施した上に釉薬を掛けて彫った部分を際立たせ、品格ある製品に仕上げたものや、白磁の造形を貼り付けて加飾した「貼花(ちょうか)」など高度な技法を使った波佐見青磁は武家や寺院などに伝えられ、あるいは城跡や家老屋敷といった富裕層の住宅跡から出土するなど、当時は献上品などとして使われていたようです。
くらわんか藤田コレクション(所蔵品展示)
大阪府交野市にお住いの藤田雅敏氏が寄贈されたもので、約1,000点からなる江戸時代の庶民向け日用食器(くらわんか)のコレクションです。当時の波佐見焼も多く含まれています。
三上コレクション(所蔵品展示)
三上次男コレクションについて
東洋史、特に東北アジア史、騎馬民族国家の研究や東洋陶磁史で著名な三上次男氏は、昭和17年(1932)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業後、中国に留学し、遺跡調査に参加されます。東京大学教授に就任後も、国内外の古窯跡・遺跡の発掘調査に携わられ、毎年のように国内外各地に赴き、精力的に調査・研究・講演を行いました。
先生の業績は多岐にわたりますが、とくに中国をはじめアジア各地の陶磁器が海の道を通り、どのような地域に運ばれ、どのような影響を与えたかという、「貿易陶磁史」の研究に偉大な足跡を残され、今もなお世界中の研究者に影響を与え続けています。
波佐見町では、昭和54年(1979)から、町内における初めての古窯跡群の体系的・学術的調査を三上先生に依頼しました。波佐見古窯跡群の学術的解明に初めて着手され、その成果は以降の研究・調査の基礎資料となりました。畑ノ原窯跡の調査においても多くのご指導・ご助言を賜りました。
古窯群跡の更なる調査と保護の必要性を訴えられた先生が撒かれた種はその後、平成12年(2000)に「肥前波佐見陶磁器窯跡」の国史跡指定へと実ることになりました。先生の手掛けられた研究は今日もなお世界中の研究者に影響を与え続けています。
平成25年(2013)12月、故・三上次男先生が所蔵されていた世界の陶磁器をはじめとする約3,000点に及ぶ貴重な資料の数々を、先生のご息女である三上かね子様より、波佐見町へご寄贈いただきました。
【三上次男氏のプロフィール】
明治40年(1907)3月31日京都府宮津市生まれ
昭和7年(1932)東京帝国大学文学部東洋史学科卒業
昭和24年(1949)東京大学教授
昭和42年(1967)青山学院大学文学部教授、東宮家(現・皇室)の東洋史教師。
昭和49年(1974)恩賜賞・日本学士院受賞
昭和62年(1987)6月6日逝去
寄託資料
寄託資料「太田家文書」について
波佐見町永尾郷の太田家子孫から2017(平成29)年、波佐見町教育委員会へ文献史料群を中心として約1000点が寄託されました。特に江戸時代前期、1658(明暦4)年に大村藩家老3名の署名によって領内各村へ布告された「御條目/定」の原本や太田郷右衛門資義が、江戸時代後期から明治時代前期に書いた「公私日記」、そして幕末の長崎港に来航した外国船に関する記録は、江戸時代の大村藩や波佐見村、幕府領長崎の実態を知る上で大変貴重な史料です。
「大村藩士、太田家」
大村藩士、太田家は代々、上波佐見村永尾郷に居住した村大給で家禄10石の家系です。先祖は最初の江戸城を築城した室町時代の武将・太田道灌とされています。
太田家は大村藩士として、皿山代官・諸村横目・勘定方役人などを歴任した家系で、江戸・大坂・長崎にあった大村藩屋敷でも勤務した人物を輩出しています。特に幕末の当主、太田郷右衛門資義(すけよし)は、大村藩領内各村の横目を歴任し、福田村の横目勤務中に明治維新を迎えました。資義は幕府領長崎に来航した外国船の記録や膨大な日記を残し、その傍ら、俳句を嗜み俳号を「杜月」と称しました。
その子、太田源六は、1868(慶応4)年、戊辰戦争中「羽州戦争」に際し、大村藩北伐軍の兵として、新政府軍に味方した久保田(秋田)藩(藩主佐竹氏)の重要拠点「角館」(かくのだて)(秋田県仙北市)救援のため、秋田方面へ出陣しました。そして、激戦地、刈和野にて銃創の負傷を負いながらも帰藩しました。
その他の展示品について
その他の展示品については下記をご覧ください。