波佐見町の先覚者

原マルチノ

16世紀中頃、大村藩主・大村純忠が洗礼を受けたことから波佐見の民も多くがキリシタンとなっていた。波佐見生まれ、原中務(なかつかさ)の子で幼少期より優秀であった原マルチノ(1569~1629)は、有馬のセミナリオで神学や語学を学んだのち、天正10年(1582)2月、大村純忠の名代として天正遣欧少年使節団に加わり、伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアンらとともにローマを目指し船出した。
2年ほどかけてたどり着いたヨーロッパでは盛大な歓迎を受け、当時のローマ法王・グレゴリウス13世に謁見、帰国途中立ち寄ったインドのゴアでは語学が堪能なマルチノがラテン語による見事な演説を行い、日本という小さな島国の存在価値を世界に知らしめた。
しかし8年の歳月を経て帰国した時にはすでに伴天連追放令が出されており、やがてキリスト教も禁教となったため、4人の少年は悲劇的な運命をたどる。司祭となったマルチノは慶長19年(1614)マカオに追放され、寛永6年、60歳で異国の土となった。

原マルチノ像

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された原マルチノの肖像画。
タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。

深澤儀太夫

江戸初期に「鯨大尽」として名を馳せた深澤儀太夫勝清は、波佐見の井石城主・井石公房の甥の孫として天正12年、中尾に生まれ、元の名は中尾次左衛門であった。青年期までを波佐見で過ごしたのち武者修行の旅で紀州太地を訪れ、そこで勇壮な鯨捕りに魅了された彼は捕鯨術を習得して九州に戻り、対馬海峡や五島沖などで鯨組を組んで大いに稼いだ。当時は「鯨一匹で七浦潤す」とも言われ、捕鯨で巨万の富を得たが、その財を地元の東彼杵や波佐見、大村などでの新田開発や堤などの土木工事や寺の建て替え等、公共的事業につぎ込んだ。そのため藩主大村純長より深澤の姓や家紋(金桝)などを与えられ、名を深澤儀太夫勝清と改めた。現在でも波佐見のみならず旧大村領内や壱岐などで地域の恩人として広く知られている。

深澤儀太夫勝清 (1584~1663)

黒板勝美・傳作兄弟

黒板越中守を先祖に持つ黒板勝美(1874~1946)は旧制第五高等学校から東京帝国大学国史科、大学院を経て同大史学部教授となり、国史学の第一人者として正三位勲二等瑞宝章を授与された。弟の傳作(1876~1954)も幼少期より神童の誉れ高く、東京工業大学卒業後東京月島機械製作所を創立した。
兄弟は長く波佐見を離れてのちも故郷を忘れず、共生田や金一封を贈ったり、小学校の農業実習地(現南小学校校庭の東半分)を寄贈したりした。また、兄弟の妹・加代はのちに今里家の友次郎に嫁ぎ、今里廣記の母となった。

黒板勝美氏

黒板勝美(1874~1946)

黒板傳作氏

黒板傳作(1876~1954)

福田清人

明治37年(1904)、母・すいの実家である鬼木郷の藤野家で生まれ、5歳まで過ごしたのち、医師である父の勤務地に移る。大村中学2年の時に波佐見出身の歴史学者・黒板勝美氏の講演を聞いて発奮し、東京帝国大学国文科に進み、卒業後は小説、随筆、評論、俳句、児童文学など多彩な文筆活動の傍ら、実践女子大学、立教大学などで教鞭をとった。特に児童文学では幼少期の鬼木での思い出を基にした「春の目玉」が第3回国際アンデルセン賞優良賞を受賞した。ちなみにこの年、最高賞を受賞したのは「ムーミン」シリーズで日本でもなじみ深いフィンランドの童話作家・トーベ・ヤンソン氏であった。
晩年までふるさと波佐見を愛し続けた清人氏は、町内の多くの学校の校歌を作詞したり、本籍のある土地を児童公園として町に寄付するなど晩年まで波佐見と関りを持ち、昭和55年(1980)、波佐見町の名誉町民となった。平成7年(1995)永眠。

福田清人氏

福田清人(1904~1995)

今里廣記

明和年間(1764~1772)より酒造りを営む今里家の四男として明治40年(1907)に誕生したのが今里廣記である。旧制大村中学卒業後、一旦実家の酒屋を継ぐも25歳で福岡に出て「九州炭鉱株式会社」の経営を始めた。その後航空関連事業や機械工業などの業界で辣腕を発揮し、経団連の常任理事などを務めつつ様々な国家的規模のプロジェクトに関わり、戦後日本の日本経済復興に大きく寄与した。ふるさと波佐見でも野々川ダムや中学校建設、圃場整備などに尽力し、NTTの設立が最後の大仕事であった。昭和53年(1978)、名誉町民となり、役場横の鹿山神社境内には北村西望作・井上靖碑文の銅像が立っている。昭和60年(1985)永眠。

今里廣記氏

今里廣記(1907~1985)

森正洋

昭和2年(1927)、佐賀県塩田町に生まれ、昭和29年(1954)、長崎県窯業指導所に勤務したあと町内にある白山陶器株式会社に入社、機能美を追求しつつ、反復生産が無理なくできることを重視した製品を次々に発表した。昭和35年(1960)のG型しょうゆさしは日本デザインコミッティより第1回グッドデザイン賞を受賞、平成30年(2018)にはロングライフデザイン賞を受賞、その他114点がGマークに指定され、また国際的な陶芸展での受賞も数多く、世界的な陶磁器デザイナーとして活躍した。
森氏の仕事は陶磁器デザインにとどまらず、愛知県立芸術大学や九州産業大学、有田工業高校、有田窯業大学校などで後進の指導にあたり、また町内では波佐見焼370年を記念した「陶碑」のモニュメントや平成8年(1996)の「世界の窯野外博物館」の監修デザインなども手掛け、高い評価を得ている。平成17年(2005)永眠。

森正洋氏

森正洋(1927~2005)

G型しょう油さしグッドデザイン賞、ロングライフデザイン賞を受賞したG型しょうゆさし